「ゲンヤさん…」
その呼び名に、幻夜はにっこり笑った。大作を寛がせ、安らかにさせる笑顔だった。どうやって造っているものか?
「今日だけでもいい。わたしを、お父上だと思って、甘えてくれないか?」
「………」
「わたしも、君のお父上になったつもりで、君を甘やかしてあげるから」
冗談めかした言い方に、少しあって、大作の頭が、すとんと幻夜の胸にあてられた。
「大作くん…」
幻夜がゆっくりと手を伸ばして、大作を抱き締めた。広くて、温かく、いいにおいのする胸だった。知らず、大作はまた泣いていた。どういう涙なのか、自分でもわからない。
幻夜の名を呟くと、それだけで、胸の痛みが甘く溶けて行く…
頬があたっているスーツの生地ごしに、幻夜の体温が伝わってくる。自分が誰かの胸にすがって泣くなど、思い出せない程久しぶりなのだと気がついた。
やはり、最後は情に訴えるというやつだな。
優しく大作をそっとそっと揺らしてやりながら、内心はニタニタ笑いそうであった。あと一押し。それで草間大作はわたしのものに…
大きな手が、自分の頬の涙を拭って行く。しかし涙はあとからあとから溢れてきて止めどもなかった。
「いいんだよ」
言い訳もしないのに、幻夜がそっとささやいた。
「今までずっと、泣きたいのを堪えてきたのだろう?お父上の遺言を果たすために、歯をくいしばって頑張ってきたのだろう?
今は構わないよ。思い切り泣くといい。
でも、思い切り泣いた後で、草間博士が自慢していた元気で明るい笑顔を見せておくれ」
そう言って、にっこり笑うと、両手で大作の顔を包み込んで、そっとうわむかせた。
大きな、素直な瞳から、水晶のような涙のしずくをこぼして、じっと自分を見上げている。その目に、怒りや憎しみや懐疑の色が無いことを見てとってから、すばやく、顔を近づけると、ごくごく軽く、一瞬触れるくらいに、キスをした。
「…!、ゲンヤさん」
反射的に逃れようとする大作の体を緩やかに抱きとめて、
「ごめんよ。君が、あんまり可愛いから、つい、ね。怒ったかい?」
「…、…いえ、別に、怒ってはいませんけど…」
真っ赤になった頬でもそもそ言いながら、幻夜の腕の中でもがいている。
どうやら本当に怒ってはいないようだ。よし。レッツゴー。
でも、あの、と言いながら大作が自分のくちびるを舐めている。
甘いだろう?大作くん。幻夜は目を細めた。いつだって、背徳と興奮剤入りのキスは、この上なく甘いものだ。…
困って泳ぐ大作の目が、熱っぽく潤んできた。頼りなく開かれたくちびるから漏れる吐息が、熱を帯びて速くなってくる。
「そう、かい。怒らなかったのなら、いいんだ。もう、しないから。ね、こうして、いておくれ」
いつの間にやら、幻夜は大作を自分の膝に乗せていた。今ではすっかり、大作の全身を自分の腕と胸と膝で支えている。どうやってそこまでもっていったのか、大作にもわからないだろう。おそるべき技術である。さすがはA級エージェントだ。
どうしたのだろう?心臓の鼓動がやたらと速い。息がきれる。しかし、決して不快ではなかった。ひどく安らかで、そして同時にドキドキする。まるで、
大作はまだ、恋をしたことはなかった。もし、一度でも、フレアスカートの少女や、タイトスカートの女教師(あるいは白いスーツの青年)にでも心を奪われたことがあったら、今の胸のたかなりがそれと同じものだと思っただろう。
「どうしたね、大作くん。すっかり黙ってしまったね」
なんて、心地よくひびくのだろう、このひとの声は。ずっと聞いていたい。眠りにつくまで。
「いえ…なんだか、胸が、どきどきして」
「いろいろ動揺させてしまったからね。横になりなさい」
父のように優しく、威厳に満ちた声で。
「すこし、ゆるめるといいよ」
しなやかな指が少しだけ、ネクタイを緩める。父のように自信に満ち、揺ぎ無い信頼を寄せるに足る、大きな手と、胸と、
「おとうさん」
うっとりとつぶやいた。茶色の瞳の焦点がややあまくなっている。
「そうだよ。わたしはきみの…お前の父さんだ。うんと甘えていいよ」
耳元でささやきながら、スーツの上を脱ぐ。はたから見ているとあさましい。
前髪を指でかきわけて、額にキスをする。指で頬の線をなぞる。
「かわいいよ。大作くん。大作」
ひくく、あまく、耳たぶをくすぐる言葉を少しずつおいてゆく。
さら、と髪が鳴った。幻夜の長い髪が耳から外れて、大作のむきだしになった鎖骨にながれおちた。
大作がそれまで、閉じていた目を、開けた。ん、と思って幻夜は注視した。
大作の目が、自分の顔を見つめている。
その目から、涙が流れたのを見て、幻夜ははっとした。思わず身を起こす。
「ゲンヤさん」
身動きができない。返事もできない。どうしたんだい大作、安心していいよわたしはお前の父親なんだから、あんな無茶をやらかす気やこんないやらしいことをやらかす気もありゃしない、ネクタイを外して服をくつろげたのも介抱のためで。
なにか言おうとしたが、言葉にならない。
大作は、一生懸命ほほえんでみせた。笑顔が見たい、とさっき幻夜に言われたためだろうか。
涙の線を、もうひとすじ描きながら、
「ゲンヤさん」
ただ、相手の名を呼ぶだけなのに、そのたびに幻夜は動揺した。
無理やり、いーや!わたしは草間博士なんだってば、と言い張り続けるのも間抜けで、困った顔であきらめたように微笑んでしまう。変だな、さっきまでは完全に幻覚に落ちていたのに。
「なんだい?大作くん」
「好きです」
泣きながら、大作は言った。
無理に笑顔をつくりながら、涙はどんどんあふれて、大作の頬をぬらしつづける。
眉を寄せ、辛いのと嬉しいのと両方に揺れる表情で、
「あなたが、…BF団だってことも、敵だってことも、…僕にはどうしていいかわかりません。父さんがいたら、何て言ったんだろう」
少し混乱しているらしい。自分の心の惑いのままに、言葉はさまよい、心の苦しみのままに、涙は流れつづけ、そして、確かにある幻夜への想いが、震えるくちもとをなんとか笑みの形にしている。
幻夜はさっきから動くことも喋ることもかなわず、上を脱ぎドレスシャツを途中まで脱いだ間抜けな格好で、大作の視線の前にさらされていた。
別に相手が嫌がっている訳ではないのだから、なんとかかんとかキモチよくさせることを言ったりしたりして、その後はお楽しみに突入すればいいのだ。その筈なのだが。
大作の手が、幻夜の手首を掴んだ。びっくりして引こうとするのを更に強く掴む。
「ゲンヤさんが好きなんです。慰めてくれたからじゃない。おなじくらい、ううん、僕よりずっと辛いのに、あのひとは強くて、優しいんだ。わかるでしょう?とうさん」
しばらくあってから、幻夜のもう片方の手が、自分の手を掴んでいる大作の手をそっとつつんだ。
「国際警察機構の皆は、もちろん、僕を優しく見守ってくれてるけど、こんなふうに…おんなじ気持ちで、僕の気持ちをわかってくれたのは、あのひとが初めてで」
それきり、幻夜は次の行動には移らず、ただじっとしている。
「いいこととか、わるいことでいったら、ゲンヤさんのしていることは、わるいことだけど…
どうしたらいいんです、とうさん、僕」
大作のくちもとから笑みが消えた。ゆっくり、辛そうに目を閉じて行く。気を失うひとのようだ。涙が、すう、と流れた。
「困ったな、僕はあのひとが好きになっちゃった」
それから、随分経ってから大作は目を開けた。ずっと動かないまま、自分の顔を見つめている幻夜を眺めて、
「幻夜さん」
名を呼んだ。
幻夜の目が静かに、うなずいたのを見て、大作は安心したように目を閉じ、今度は眠りにおちていった。
そのまま、幻夜は、間の抜けた格好で、大作の手だけを抱いて、寝顔を見つめ続けていた。
「草間大作の誘拐に成功したそうだな。さすがは自称美少年兼初老キラーじゃないか」
アルベルトの嫌味が耳に入っているのかどうか、虚ろな表情でファイルを繰っている。
何も言わない相手にアルベルトのこめかみがいらいらと引きつった。
「返事くらいしろ。そうなのか。それとも逃げられたのか?貴様にハダカで襲われて逃げ帰ったのか」
「…この建物の中に居る」
うるさげに、うっとおしげに、呟く。
「ほう。ならばもっと自慢したらどうだ。何を憂鬱そうな顔をして考え込んでいるのだ?」
「貴殿には関係ない」
「そうか」
けんもほろろの幻夜の口調だが、アルベルトは一向に気にした風もなくにやにや笑っている。相手がなんだか意気が上がらないのが嬉しくてしょうがないらしい。つくづく仲の悪い同僚だ。
「それにしても不思議だな。あれだけ執心だった小童を手に入れたのに、まるきり嬉しくもないといった風情ではないか。なんだ?思ったほどでもなかったのか?」
幻夜はきっと眦を上げて、叫んだ。
「下品な男ですな、貴方は」
「貴様に言われたくはない」
痛くもかゆくもないと言いたそうだ。
「とにかく、草間博士の息子を貴様の命令で動く玩具に改造したら、声をかけてくれ。目の前でGR1の盆踊りでも見せてもらおう」
最後まで機嫌よく、「んーんんんんんーんんー」などと鼻歌を歌いながらその場を立ち去る。と、たちまちどこからかイワンがふっとんできて、ハモりだす。
いつもならうっとおしい、という顔をするところだが、今はよほど機嫌がいいのか、満足げにうなづいて続きをハミングする。イワンは嬉しくて泣きそうだ。
その背をにらみつけていたが、やがて力なく視線を落とし、最初から読んでもいなかったファイルを眺める。
「…アルベルトどのの言うことも、もっともかも知れんな。どうしたというのだ、私は」
ため息をつき、ばん、とファイルを閉じ、自分もその部屋を後にする。
好きです。
…そうか。よかったな。では、私の好きにさせてもらおうか。
すればいいではないか。なんだ?急に、本当に父性愛にでも目覚めたのか?泣きながら見つめられて可哀想になったのか?自分のテクニックに自信がないわけでもあるまいし、ちゃんと段階を踏んでおこなえば別にいためつける行為というわけでも…
途中でいやになってやめた。
おんなじ気持ちで、僕の気持ちをわかってくれたのはあのひとがはじめてで。
そう思うようにもっていったのだ。当然ではないか。
思い出してはそれを打ち消しながら、づかづかと廊下を歩いて行く。なんだか、ひどくいらいらする。
僕よりずっと辛いのに、あのひとはあんなに強くて優しい…
「だから、そう思うように、わざわざあんな手間隙をかけて」
声に出して怒鳴り、再び情けなくなって口を閉じる。
そのうち、目が覚めるだろう、あのベッドに寝たままほっといて出てきてしまったから。目が覚めたら、何を覚えていて何を忘れているか、予想はできない。どちらにしても…
最初にあの子供がすることは、腕時計を生きの状態にして、叫ぶだろう。誰かいますか。そこに?こちら草間大作、ここはどこかわかりません…あるいは、
BF団の男にさらわれました。助けにきてください。ロボ、僕を迎えに来てくれ。…
舌打ちする。どうして腕時計を再びかっぱらってこなかったのか。
動転して忘れていた訳ではない。…なぜだか、泣きながら眠ってしまったあの子の細い手首から、ごっつい腕時計を抜いてもってくる気になれなかったのだ。
ためいきをつく。面倒なことになるかも知れないな。いきなりここで国警と一戦まじえることになってしまうのだろうか。
とりあえず大怪球の調子でも見ておくか、と足をそちらへ向け、
そして幻夜はぎょっとした。
大怪球の格納庫で、何者かが宙吊り状態になって、月面着陸のアームストロング船長よろしく大怪球のまわりを、ゆらゆらとへめぐっているのだ。
「なんだあれは」
「あ、幻夜さま」
部下の一人が困った声を出す。
「なんだかよくわからないのですが…急にあの子供がやってきて、大怪球を掃除したいと」
「なに?」
外国の珍しい風習を聞いたように、聞き返し、それから見上げると、
必死で大怪球にとりついているのは草間大作であった。手にはブラシと、なんだろう。何かを持って、ごしごしこすっている。
「何故そんなことを許可した」
「申し訳ありません。あんまり必死で、押し切られてしまって」
「しかし…何故あんなことを」
理解不能だ。
あっけにとられ、そのまま、大作が「すみませーん下ろしてもらえませんかー」と叫ぶまで、その姿を眺めていた。
地上に降りてきた大作は、幻夜が自分を見ているのに気づいて、気まずそうな顔になり、足が地面についた時点で腹をきめたらしい。きっと口を結んで走ってきた。右手にブラシ、左手に雑巾の入ったバケツを持っているのが、間抜けだ。
目の前まで来て立ち止まる。そのまま、にらみあう。
結局、折れたのは幻夜が先だった。
「なにをやっているんだ、草間大作」
「なにか」
そこで声が出なくなり、音をたてて息をすい、一回ため息をついてから、
「あなたのためになることが、したくて」
目を見開く。
今目の前に居る少年は、一体、どういう状態なのだろう?
まだクスリが効いていて、『幻夜さんだか父さんだかわからないがラブラブモード』なのだろうか。そうだとしても、
『ああっ好きです幻夜さん』がどうしてタマ掃除になるのか?
「わたしのためになること」
相手の真意をはかりかねて、言葉をなぞると、
「あなたがいつも乗ってるし…お父さんそのものだって言ってたし…あと、この前戦った時わきっちょの方とか随分汚れてるなと思ったんです」
一瞬つまったが、言葉の後半部分につい吹きだしてしまう。その顔を見て大作は嬉しそうになる。
「わきっちょの方か。…きれいにしてくれたのか」
「はい」
「それは、ありがとう」
「いえ」
言葉少なに返して、きゅっとくちびるを結んだ少年の目は、感謝された喜びと、今の状況に対する苦さとで、いろいろな色に染まっている。
…ここに来て、幻夜にも、ようやく解った。
この子は精一杯の好意を、相手が大事にしている機械をきれいにすることで、あらわすのだ。
「君は」
何とつづけていいかわからず考えてから、
「おかしな子だな」
大作はちょっと不服なような、はにかんだような表情になった。
「…そうですか?」
その表情を見ているうち、幻夜の胸の奥、ほとんど腹の底から、なんとも形容のつかない、つらいとさえ言えるようなものが、こみあげてきた。
「僕、掃除道具しまってきます」
「わたしも手伝う」
「いえ、いいんです。僕が勝手にやったんですから」
「いいから」
相手の左手からバケツをもぎとろうとして、気づく。
腕時計が死んだままだ。
思わず相手の顔を見る。幻夜の視線の意味に気づいて、大作は一回目をそむけてから、戻して、
「ホントに汚かったんです」
責められている訳でもないのに、いいわけのようにしつこく繰り返した。
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