どういうつもりだろう、と幻夜は思う。
連絡を取っていない。草間大作は。国際警察機構に。
それは…どういうつもりも何もない。本人が取らないつもりでいるからだ。それだけのことだ。それは喜ばしいことではないか。もはや強制していないのに、国警に戻らず、ここに居る。それはすなわち、アルベルトたちの観点から言えば、GR1を取り返したも同然ということだし、幻夜の観点から言えば、
目の前の可愛い少年を、いつなんどきでもお好きなように出来るという事だ。
最初は、その目的で行動を起こしたのだろうに、今そのことを考えると、なんだかいやな手触りのものに触ってしまったような不快感がこみあげてきて、思わず眉をしかめた。
相手の顔が歪んだのを見て、大作が動揺する。それを更に幻夜が見てうろたえる。
「違う。君のせいじゃない」
言い訳をしかけて、はっと気づくと、背後で部下どもがうろんな目つきと態度で、自分らを見比べている。
「わたしの部屋に行こう」
咳をしてごまかしながら、なかば無理やり大作の肩をつかんで連れて行こうとする。
「待ってください、掃除道具がまだ」
「いいから」
今度こそ無理やりバケツをもぎとり、足早に先に立って格納庫を出てゆく幻夜を追いながら、振り返って、覆面の連中に、
「ありがとうございました」
礼を言っている。舌打ちしたい気分と、苦笑してしまう気分が、背を向けている幻夜のくちもとをおかしな形にした。

中に入り、ドアを閉める。先に入った幻夜の手から、再びバケツを受け取りながら、
「あのう、手を洗いたいんですけど」
「洗面所はその向こうだ。バケツもそこに置いておいてくれ。洗ったらそっちの」
「はい」
「ソファにかけていてくれ」
言われたように大作は洗面所で手を洗った。豪華というか華美というか、洗面化粧台は大理石でできている。模造ではなく天然ものだ。天井の照明もやけにデコラティブだし、どういう意味があるのか天使の彫刻まで置いてある。この分だと風呂場も推して知るべしだ。ライオンの口から湯くらい出ていそうだ。
BF団はお金持ちだって呉先生や戴宗さんがこぼしてるのを聞いたけど、全部の部屋がこういう感じなら多分そうなんだろうな、と大作は思った。実際はここいらの調度は幻夜が勝手にやらかしたもので、アルベルトが大作の感想を聞いたら「わたしの部屋はあんな悪趣味じゃない」と怒ったであろうが。
大作は言われたように、置場所をちょっと探してから、天使が置かれていない空間にバケツを置いた。ものすごく不調和だ。
部屋に戻って来て、L字型のソファに座る。ふっかふかで体が沈み、しばらく体が泳いだ。見ると、幻夜は部屋の一角にあるカウンターバーで、愛用の道具を使いコーヒーをいれているところだった。丁度今アルコールランプに火をつけた。
シズマのコーヒーメーカーしか見たことが無い大作は、サイフォンがごぼごぼ言っているのを、目を輝かせて見つめている。それに気づいて、幻夜はまた自分の口元が微笑んでくるのを感じたが、無理にぎゅっとひっぱって、それでも普段は使わない皿類がしまってある棚から、やわらかい白に深い藍色のラインが美しいコーヒーカップのセットを取り出して、温めた。
薫り高い、なめらかな熱いコーヒーがなみなみと注がれる。
ブランデーを入れようとしてから、ちらと大作を見る。即座に、
「僕、平気です」
返事が返ってくる。幻夜が何を考えたかわかったらしい。思わず、くすりと笑って、
「君はまだ12だろう」
「コーヒーに入れるくらい、平気です」
「コーヒー自体、まだ早いのに?」
ぶう、とふくれる。拗ねたその顔の愛らしさに結局は折れて、
「わかったよ。今日だけだよ」
大作が嬉しそうな顔になる。それを見て幻夜は、やはり、だらしなく緩みそうな口元をひっぱった。

こと、といい音がして、大作の前に『一分の隙もない完璧な』コーヒーが置かれた。
幻夜は自分の分を持って、大作の右手の一人がけのソファに座る。ふわふわ加減には慣れているらしく、カップをひっくり返すこともなく、腰を落ち着けると、
「どうぞ」
空いている手で、指し示した。
「いただきます」
御行儀よく、勧められるまで待っていたらしい。軽く頭を下げて、ちょっと考えたが、そのままカップを持ち上げた。いつもは砂糖とミルクをたっぷり入れて飲んでいる(そうでないと呉先生と銀鈴さんがうんと言わない)のだが、今日はなにしろこの上なく上等なコーヒーをマイセンのカップで、しかもブランデーまで入っている。とても、いつもの『おこちゃまコーヒー』にしてしまうのは、もったくなくて出来ない。
ひとくち口に含んで、くらくらする。『単に酒臭いので酔った』というのではない。
酔うというなら、アルコール分が無くても酔ってしまいそうな、贅沢で濃厚な薫りと味わいだ。コーヒーってこんな飲み物なんだ、と吐息をついた。
「美味しいかい」
「はい、とっても」
「そう。君は通だな」
意味がわからなくて不思議そうに相手を見る。自分もひとくち飲んでから、
「本物の味がわかるってことさ」
照れとブランデーでほっぺたをほのかに赤くして、大作は火傷しそうに熱いコーヒーをゆっくり味わった。
緊張はしているのだが、この空間の居心地の良さが、コーヒーのようにゆっくりと、大作の心を解きほぐしてゆく。
こちこちと落ち着いた、重厚でかつ可愛い音がするので見ると大きな柱時計が時を刻んでいた。窓も、見上げるような天井近くまであって、たっぷりしたレースのカーテンが下がっている。
それを見て、覚醒した時二度とも最初に目に入ったベッドの天蓋を思い出した。あれと共通するイメージだ。
…あれは、ここの隣りの部屋だった。…さっき、一人で目を覚まして、ベッドの上でいろいろ、いろいろ考えた、…幻夜が、自分が寝ている間にいなくなった訳とか、自分が、多分、今すべきこととか、手首にはまったままの腕時計に映って見える、自分をものすごく心配してくれている人たちの顔とか。
あんまりいろいろ考えたので頭が痛くなってきて、
なんでもいい、今自分がしたいことをしよう、と思った。それで、
一人寝室を出て、この部屋から廊下へ出て―――大怪球がある部屋を探したのだった。
「ひとりで、目を覚ました時」
幻夜が口を開く。大作はレースのカーテンから目を外して、幻夜を見た。幻夜は大作を見ていなかった。
手の中のカップの中に、どんな占いの卦が出ているのか、じっと眺めながら、
「何故、大怪球を掃除しようなどと思いついたんだ」
「それは、だからさっきも」
「君はここがBF団の建造物だと知っている。わたしがBF団のエージェントだと知っている。わたしが君の身上を知った上でここに連れてきたと知っている」
無表情な口調で連ねてから、
「それなのに、腕時計を通信不可の状態にしたまま、敵の乗り物の掃除をするというのは、どう考えてもおかしいのではないかな」
喋りながら、
わたしは何を言おうとしているのだろう。
いいではないか。こちらから何も言う必要はない。国警を呼ばれたら厄介だなと言っていたくせに、何故呼ばないんだと詰問するのか?馬鹿じゃなかろうか。
何も言う必要はない。この子がわたしを嫌っていないことは確かだ、それはさっきからのこの子の表情を見ていればわかる。薬の効き目はもうとっくに切れていい頃だが、催眠暗示との相乗効果か何かあるのかも知れないし。とにかく、
わたしが何も言わなければ、それで万事OKなのだ。
それなのに、何故わたしはわざわざ波風を立てようとしているのだろう?
大作は案の定、困ったような辛いような顔になって、腕時計をそっと見下ろしたが、意を決して、
「ここに居たいんです」
それから首を振って、
「あなたの側に居たいんです」
言い直した。真っ直ぐな目で、恥ずかしいのを堪えて自分を見つめる。目をそらさない。本当はうつむいてしまいたいのを懸命に堪えている、その『堪えている』部分がほっぺたで赤く、丸くなっている。
純情光線をまともに受けて、はぅ、と幻夜はうめいて倒れそうになった。懸命に堪える。幻夜はのけぞり気味に、大作は必死で身を乗り出し、見つめ合う。
いつもは自分がじっくりとエッチっぽくねめまわすのに堪えきれず相手が目をそらす…というのが一連の約束事なのだが、
今回は、自分の方が、相手の目に負けて目をそらした。
「幻夜さん」
声が追ってくる。
うぉ、とクマのようにうなって、右の手首あたりをさまよっていた目を左側に動かす。
「だめですか?」
「だめっていうか」
「いいんですか?」
「いいっていうか」
まるである種の女子高生なみだ。答えるたびに、目が右、左と動いて、人間ワイパーになっている。
「幻夜さん!」
じれったくなったのか甲高い声を上げられ、なんだか喫茶店で一方的にやりこめられているカップルのかたわれになった気がして、幻夜はかっとなって怒鳴り出したが、
「わたしの側にいたいって?別に面白いおもちゃがある訳でもないし、マンガが読み放題という訳でもないぞ」
言うことを決めずに口を開いたのでなんだか無茶苦茶なことになった。案の定大作は怪訝な顔になって、
「子供扱いしないで下さい、おもちゃやマンガなんて」
「違う。そんな話をしてるんじゃない。君が私の側にいたいというのはだ、」
「あなたが好きなんです」
緊張しきった真剣な声音、ひたむきなまなざし。
直球ど真ん中が眉間に当たって、幻夜は鼻血を吹いてのけぞった。
変だな、と自分でも思う。今まで星の数ほどの美少年を毒牙にかけてきた男の筈なのだが、なんだか今回は勝手が違う。
今までにだって、こういう、『純情可憐タイプ』はもちろんいくらでもいたし、目からお星様飛ばしながら『あの…あの…好きです』なんて言ってくるのを『ふふふ、可愛いことを。わたしもだよ』くらい言ってそのまま、なんて事はざらなのだが。
「くくく、草間大作」
「好きっていうの変でしょうか?でも他になんて言ったらいいのか… あなたのことが、すごく、すごく、…
大切ていうか、見ていたいっていうか、やっぱり好きっていうか…」
じーん。
我知らず、幻夜は涙ぐんでいた。
はっとする。馬鹿かわたしは。
必死で、「冷酷な顔」をこさえて、自分を立て直し、
「自分でも変だと思っているんだろう?さっき、君に薬を使ったからな。その後遺症で、今の君はちょっと惚れっぽくなっているだけだ。わたしでなくても、誰でも好きに…」
言いかけて、
大作が目をハートにしてアルベルトにすがりつき、『あなたが好きです』『ん、そうか?わはははは』葉巻を口から放して、大作の顎をつかまえると、ニヤリと笑い『特別製の衝撃波をお見舞いしてやろう』
脳裏に悪夢のような一連がむくむく浮かぶ。思わず絶叫していた。
「ゆるさーーーん!!」
「げん…」
「くそ!あのエッチなドジョウ髭め!関心なさそうな顔でなにを、なにを〜っ」
「幻夜さん、幻夜さん」
目を吊り上げ髪を振り乱し我を失っている幻夜をあわてて宥める。しばらく、ソファの上でのたくってからようやく戻ってきた。
「ぜいぜいはあはあ、し…失礼した。つい…ぜえぜえ」
純白ばりばりのハンカチで汗を拭いている相手を、つくづく見て、くす、と笑う。それから、くすくすくす、と笑った。
「なんだ。何がおかしい」
「幻夜さん、僕のことおかしな子だって言ったけど、幻夜さんもおかしいです」
「わたしはどこもおかしくない」
反射的に否定したが、あまり説得力がない。自信がなくなった相手の表情に、大作は更に笑った。
「笑うな、草間大作」
「ごめんなさい」
神妙に謝ってから、うつむく。見ると、くちもとがひくひく震えている。笑うのを堪えているらしい。幻夜はしょぼくれた顔で、ため息をついた。
何とか笑いおさめてから、大作が、妙に大人びた声で、
「薬のせいじゃないと思います」
なに?と尋ね返す相手に、
「最初に会った時は、背が高くてハンサムで、スマートで、かっこいいひとだなあって思って…次に、優しくて、温かいひとだなって思って…次になんだか変なひとだってわかったけど、やっぱり、好きなままです」
少し考え、うなずき、再び口を開く。
「変わらないです。少しおかしくても、…
BF団てわかっても」
びーえふだんてわかっても。
それが、この子にとってどれだけ重い一文であるか、幻夜にだってわかる。
「薬のせいなんかじゃ、ないです」
もう一度、あまり大きい声ではないが、きっぱりと断定する。
「幻夜さん」
何度目だろう。この子に呼ばれるのは。
何故だろう。
この子に、この目で見つめられ、名を呼ばれると、なんだか、
胸の中が熱くなり、胸の奥が辛くなる。一体これはなんだろう。
「やめろ。優しくて温かいだと?わたしは…君の言うような…親切な保護者じゃない。くそ」
不意に幻夜は大作の肩を掴んで、がばとソファに押し付けた。
「えっ、な、幻夜さ…」
「わたしを好きだと言ったな?わたしがどんな人間であれ好きなことは変わらないと言ったな。生意気なこの口で」
思わず逃げ出そうとする相手を押さえつけて、嫌な笑い方をしてみせる。
「だったらわたしがなにをしようと構わない筈だな?」
「………」
返事がないのは、恐怖のためか、嫌悪のためか。
「子供扱いするなと何度もごねたしな。ではこの辺で大人のすることを教えてやる」
さっきは丁寧にゆっくりと解いたネクタイを乱暴にひきむしろうとした。
「いいです!」
大作が怒鳴った。ソファの上に、一本の棒のように固くなって寝たまま、真っ赤な顔で、幻夜を睨みつけ、
「何でもして下さい。望むところです!」
さらにでかい声で怒鳴り、歯をくいしばる。
「く、くさま…」
「その代わり、幻夜さんがするって言ってること全部しても、僕があなたのこと好きなままだったら、僕の勝ちですから!」
「………」
今度は幻夜が絶句する。
ほとんど泣きそうなくせに、涙目を懸命に見開いて自分をぎゅうぎゅうにらみつけ、汗をかいて必死に叫び続ける相手に、
幻夜は途方に暮れ、なんだか笑いたいような泣きたいような気持ちになって、
「もういい!」
起き上がり、着衣を手早く整え、髪を振り乱したまま、足音も荒く出て行ってしまった。

一体何冊あるのか、多分誰も知らないのだろう。国立図書館にも引けを取らない蔵書に埋もれて、さっきからずうっと、鬱々考えこんでいる。
とにかく、自分がままならない。あの子の前ではなにひとつ、自分の思う行動が取れない。それどころか、自分が何をどう思っているのかさえ、自分でもわからなくなる。
相手がうんといい、することしろと言っているのに、手が出ない。出せない。
わたしを好きだと言っているのだから、それに乗っかってムーディな方向へ行けばいいのに、気がつくとそれを否定するような可能性ばかり示唆している。
子供のくせにヘンにいろいろ見えていて…かと思うとやけに子供っぽくて、
「するって言ってること全部って、何されるかわかっているのか、あの子は」
呟いて、笑ってしまう。
僕の勝ちですからって。勝ちって何だ。馬鹿だな。くすくす笑いが大きくなり、乗っていた脚立のバランスがくずれて倒れそうになり、肝を冷やす。
とたんに、背に声がかけられた。
「貴様は小学生か」
ぎくりとして振り返ると、案の定仲の悪い同僚がバシュタール関係の本を数冊小脇に抱えて、立っていた。
「なんです。わたしがなにをしたと」
「一人でぶつぶつ喋り続けて時々舌打ちしたり笑い出したり、思い出してにやにやしたり」
さー、と血の気が引く音がした。
「…聴いていたんですか」
「聴きたくもないのに、聴こえたわ」
「悪趣味な!本当に貴方は品性下劣だ!何もそ知らぬ顔で勝手にひとの、ひとの、」
「やかましい」
怒鳴られ、思わず身を引き、はずみで今度こそ脚立がひっくり返った。後頭部を強打して意識が遠ざかる。
「みっともないことこの上ないな、幻夜」
遠くから、なにやら自分を馬鹿にしている声が聴こえる。反論したいのだが舌がまわらない。
「なにが美少年キラーだ。笑わせる」
「わ、わたしは、美少年には、ちょっとうるさい…」
「本当にうるさいぞ。ミイラ取りがなんとやらというだけの話ではないか。下らん」
なんとか起き上がろうと努力している男を汚らしげに睨みつけ、
「変態め。ガキに鼻毛を抜かれて、一人で勝手にややこしくしていきおって。つきあいきれん」
どすどす行ってしまった。
痛む頭をさすりながら、床に座りなおし、しばらくそのままでいたが、幻夜には、彼が何を言わんとしていたのか、わからないままだった。
首を傾げて呟いた。
ミイラには興味はないし、鼻毛はちゃんと処理している。…

[UP:2002/2/16]
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