鉄牛が、小銭ぎっしりのサイフ取ってきまさ、と言ってそこの階段を上がって行ったのは、果たしていつのことだったのだろう。
鉄牛。いつになったら来るんだ。来て、さあもうメシですぜ、ボーリングなんかやめてメシにいきましょうや、といってくれ。
銀鈴でもいい。そんなに汗かいて。御飯の前にお風呂に行きませんか?と言ってくれ。そしてあたしらをここから連れ出してくれ。
関節も筋肉もガタガタだ、満足に立って歩けない。でも。
でも、ゲームを始めたばかりなのに、もうやめたいのか、俺は。
真新しいスコア表には、まだ最初の方しか書き込まれていないじゃないか。
疲れた。泣きたい。楽しくてしょうがない。
うめきながら、戴宗は立ち上がった。次は自分の番だ。
今では、誰かが自分たちの後ろに居て、どうやら終わらせたくないと思っているらしいのは、三人共わかっていた。
多分、俺は、こいつに約束しちまったんだろうな…
一体誰なんだ?ボーリングの精か?
ビーチボーイズの曲を、何回聴いただろう。暗記するほどだ。ちゃっちゃらっちゃちゃっちゃらっちゃ…カリフォルニアの、青い空。嵯峨ビーチの、青い空。白い砂浜。落日。ところで今は何時だろう。
戴宗の手を離れたボールがきゅっと曲がって、かこんかこんかこーん。白いピンが倒れる音。
どさり、と椅子に倒れるように座り込んだ。膝に力が入らない。
「ストライクだ。スコアをつけろ」
ほとんど聞こえない一清のかすれ声に、ああと答えて、戴宗は黒いリボンを描いた。自分の写真の上に飾っているんだろうか?
ビーチボーイズの曲が妙に歪んで聴こえる。もう、何年もうこうやって鳴らしているので、テープが伸びたのか…
………
ふと意識が遠ざかり、ふと、目を開ける。
「う、あ、うぉりゃあああ」
楊志が、目の前に浮かせたタマを、棒を構えたような姿勢で、拳で打った。タマは無回転で、すっ飛んでいき、ピンを直撃した。ふらりと揺れ、手を乾燥させるキカイの上に、どっと手をついた。
「…誰が、いつまでも言うなりになってると思ったら…」
低くつぶやいた後、顔を上げる。下くちびるから血が流れている。血が、出るほど噛んだのだろう。
見ると、最後のフレームだ。戴宗の欄だけが、空いている。
「ようっし…見てろ、有終の美ってやつだ…」
せっかくだ、もう1ゲーム、するか?と言いそうになる自分の口を、左手で押さえつける。自分の中に、幾人もの自分がいて、気が違いそうだ。
ふらふらと立ち上がり、ボールを構えた。もつれそうになる足で前に出る。ファールにならないように…
どん。ごろごろごろごろ。かこぉーん。かこーん。
「ストライクだ。いいぞ、戴宗」
と、と、と後ろに倒れるように歩いてきて…手をつく。そこにあったタマを取って、ゆら、ゆらと前に出てゆく。
重い、と思ったが、もう投げるアクションに入っていた。何で俺は、重いのに気づかないんだろうね。そんな感覚まで無くなってきたんだろうか。
一清が使っていたボールを、戴宗は投げた。水の中のような動きに見える。
ボールはやけにゆっくりと、不思議な回転の仕方をしながら、ずーっと、板の目の上を一人旅してゆく。
頼む、行ってくれ、
祈るような思い。
「あー、ダメかな、ありゃあ」
あくまで陽気な声。
二つの気持ちで戴宗の顔は、二つの色に塗り分けられている。その間をぬって、ボールはようやく一番向こうに辿り着いた。
か、こ、ん
かこん、こん、
恐怖のドミノは、思わせぶりな間の後、最後の一つにとどき、それは、どうしようかなあ、というようにくるりと回ってから、
倒れた。
「やった。やった!あと一投だよ!」
楊志が悲鳴のような歓声を上げた。
ごんごんごん、とボールが帰ってくる。よろよろとそれに手を伸ばし、持ち上げ、胸の前に抱く。
自分が何か吐きそうだと思う。血をか。最後に食べたものをか。
これで終わらせるのだ。終わるのは惜しいけれど…始めたばかりなのにもう終わるのか、と思うけれど…ここへはボーリングだけしに来てる訳じゃないし。
な。そろそろ、他の、楽しいことも、しようや…
こみあげてくるものを懸命に飲み下し、ボールを抱えて、一歩ずつ、進んでゆく。
「戴宗、そのボールで、いいのか」
声が水の中のように聞こえる。いい、と返したが多分届かなかっただろう。
これで終わり…
耳の後ろで、誰かが言った。
違う。これから始まる
誰かが、戴宗の後ろからかぶさってきた。誰かの手が腕に、誰かの体が背に、押し付けられてくる。
耳に息がかかる。
くすくすと笑う声が頬に触れてくる。
まだ、終わらせない
戴宗の体が勝手に動かされる。勝手に、ガーターの溝へ、タマを転がそうとする。
ちくしょう。
ちくしょう。
「戴宗!」
一清の声。
「あんた、…」
楊志のうめき声。
手が、タマを、転がそうとする…地獄へ。
救いを求めて見上げた目に、天井で輝く、ハロゲンの強烈な光が入り、目が眩んだ。
一つ目の化け物のようだ。
ひとつめのばけものって、いったら、そいつぁ、
極限におかれた戴宗の心が、ふと呟いた。
衝撃の野郎のことか?…
「衝撃の」
零コンマ数秒の間、戴宗の体に漲った戦闘の意識と欲望が、全ての呪縛を祓った。いまだと思った。で、投げた。投げてみるとそれは左腕だったが、
ボールは、何度かバウンドし、それから、ピンをなぎ倒した。
それはなんだか、何かが崩壊している姿に見えた。ぼろぼろと、しっくいの壁が崩れるように、ピンが倒れ、転がり、消えてゆく。
呆然と立ち尽くす戴宗、その後ろで呆けた顔で見つめている一清と楊志、キラキラと輝く王冠のマーク。
ビーチボーイズが流れている。
ゆっくりと、戴宗が振り返る。二人は、白い顔でそれを見返す。
「すげえ、記録、だな。三人そろって、三連続、ストライクだ」
「そうだな」
「そうだね」
そろそろと息を吐き、うなずいて、
「こんな、すげえ記録は、もう、越せねえだろうから、ここで………」
そろそろと息を継ぎ、
「やめと…こう。やめよう。な」
「お開きにするか。よし」
「ああ、楽しかったね」
三人で、うんとうなずいた時。
『何か』が去ったのが、体のどこかでわかった。
三人はしばし、動かなかった。動けなかった。
そこに、
「お待たせしました兄貴!ちょっと銀鈴の奴が一人で遊んでまして」
「変な言い方しないで。本当にあれは、」
二人がやってきた。と、返事もせず彫像のようになっている三人の異様な雰囲気に、驚いて、
「ど…うした…んです?」
まだ、返事がない。三人とも、肉体と精神両方のあまりの疲労で口がきけないでいる。せわしい呼吸をする力も残っていないらしく、低くとぎれがちな息を、ふう、ふひゅう、ひゅうと繰り返しながら、自分をなんとか立て直そうとしているようだ。
…俺がサイフ取りに戻って、銀鈴を助けて…銀鈴が一度部屋に行くというのに付き合って、ここに戻ってきた。…急いでやればワンゲームくらいは出来たのかな?いや、無理だよな。何にしろあんなに疲れてるのは変だし、第一。
覗き込んだスコア表には、何も書かれていない。
「兄貴達、ゲームは…」
その途端、三人がばっと身を起こして、鉄牛に飛び掛かった。三人の手が、同時に鉄牛の口を塞ぐ。
「…!…、………!もが」
「やかましい!銀鈴、ここを出るぞ。早くしろ」
「え?でも、ボーリングをしに」
銀鈴の口も塞がれた。驚く娘をひきずり、息ができなくてもがく男の頭と胴と足を持って、三人は脱兎のごとくボーリング場を後にした。
「どこまで…『あれ』の力は…効くんだい?」
「しぃっ!黙ってろ」
どかどかと階段を上り、踊り場を回り込んで、上の階へ辿り着く。そのままどんどん進み、ちょっとした机とソファのある会談場のようなところまで来て、先頭の戴宗が足をもつれさせ、どどどと全員が床に崩れた。
「はぁはぁはぁ、…もう、多分…大丈夫だと…」
「本当にかい。何故わかる」
「カンだ。なんとなくだが、」
ふむ、一清が床に座り直し、
「あの曲が聞こえないからか」
「まあ、そんなところだ」
戴宗と、ちょっと遅れて楊志が、床に仰向けにひっくりかえった。どすーんと地響きがした。
一清がはっと気付いて、
「おぬしら、靴を脱げ」
がばと飛び起き、三人とも大慌てで靴を脱ぐ。…赤い、呪いの靴を履いてしまった哀れな娘の話は知っているけれど、と銀鈴は思った。
呪いのボーリングシューズ?
焦っているのでなかなか脱げない。やっと脱げたところで、三人とも廊下の彼方まで靴をぶん投げた。ずーっと向こうで、がっ、と壁に当たって床に落ちたのが見えた。
戴宗の浴衣が乱れまくって、下に着ている赤白水着の、鎖骨がやけにぎろぎろと浮き上がって見える。
わけのわからない二人が、顔を見合わせ、
「もう、聞いてもいいですかい?何があったんです?」
三人はしばらく口をきかなかったが、生唾を飲んで、低い声で、
「何があったと言えばいいんだか」
「我々にもよく、いや全然わからんのだが」
「あんなおそろしいボーリングは、二度と御免だよ」
二人はまた顔を見合わせ、一応とっかかりのようなものをくれた楊志に、異口同音に尋ねた。
「おそろしいボーリングって?」
楊志は一瞬躊躇し、それから意を決して口を開いた。
「聞いても信じないと思うけどね。あたしだって別のヤツに聞かされたら信じないだろうし。…変な奴がいてさ。見えないけど、いるんだよ。幽霊だかオバケだか…そいつがあたしらに」
ごくりと喉を鳴らして、
「死ぬまでボーリングをやらせようとしたんだ」
「ええっ?」
「冗談抜きだよ。あのままやらされてたら、殺されてたよ」
銀鈴は、さっき自分に起こったことを思い返していた。
あれは一体、どういうことなのかと、あれからさんざん正解を探して考えてみたが、わからなかった。が、
誰かが、健二さんの幻を見せて、私を誘い込んで、殺そうとした、というのが…正解なのだろうか。
あの小さな手の主が?
鉄牛が、戴宗を見て、
確かに、にわかには信じがたいっていうか、何言ってるんです三人して、と言いたい話だけど。ボーリング殺人事件なんて、火サスのタイトルにもなりゃしない。でも、考えてみるとさっきの、迷子。
あれだって、下手すると俺と兄貴は死んでいた。迷子になって、ホテルが見つからなくて、皆に置いていかれて。話として聞いたら馬鹿みたいだが、自分の問題となれば…
あれが、冗談ごとじゃなかったのはよくわかる。
…で、つまり。
「なんだかよくわからないけど、とにかくヤバいってことですか?」
「その言い方が一番合ってるな」
戴宗が、ようやく『ニヤリ』という笑い方をした。
「ここにいない人間と合流するか?」
「信じちゃくれないだろうけどね。幻夜のヤツなんか思いっきり笑うだろうけどさ」
「そうしたら」
へ、と戴宗が肩をそびやかして、
「一人でボーリングやってこいって言ってやる。あいつのことだ、思い切り吹きまくって墓穴を掘るだろうさ。おっと、大作は絶対に連れていかせないようにしないと」
「とにかく、呉先生と長官の所へ行ってみます、私」
「頼む。ここへ連れて来てくれ」
戴宗は単に意志の疎通を図っとこう、というだけで言ったのだが、銀鈴は、
呉先生たちにも、何か起こっていないとも限らない。
ふといやな予感がした。
「彼らはどうしたのかな。フロへ行ったのか」
「いえ、多分ボーリングやコインゲームで遊んでからだと思います。…ボーリング場や射的やUFOキャッチャーで敵が襲ってくる図、というのもちょっとピンと来ないんですが」
「それを言ったら、そもそもがこの手のレジャーセンターなんだ。どこで襲っても間が抜けていない場所はないだろう」
「そうですね」
苦笑している声を背で聞きながら、中条は部屋の隅にある随分と大きな鏡台に、ふと近づいた。
御婦人が使うこともあるだろうから、このくらい大きい方がいいのかも知れない。それにしても随分大きな鏡だ。
このくらい大きければ第一級の悪魔でも呼び出せそうだ。
前に立って、鏡を覗きながら、
「しかし、幻夜という男は、もっと本当に金のかかった場所に誘うのかと思っていたが」
「大作くんが喜ぶ場所をと思ったのではないですか。見栄を張るより、そちらの方を第一に考えたのでしょう」
『幻夜を庇う、ものいい』を耳にした時。
ふと、鏡に映っているものが、ぐにゃと歪んだ気がした。えっと思ったが、今は別段変わって映ってはいない。
何だったのだ?と思いながら、そこに映っている呉の背中を見つめる。
何だろう。
ひどく、イライラしてくる。
気がついたら、言うつもりもなかったことを口にしていた。
「君はあの男をよく知っているからな。昔から仲が良かったのだろう?兄弟のように育ったのだから当然か」
「育ったというような年ではありません。それに兄弟のように扱われたり扱われることを望んだりはしていませんでした」
声がかたい。ひときわ無表情に聞こえる。鏡に映っている背も、強張ったように感じる。
「そうかね。昼も夜も無く一緒にいたのだろう。あの男が居ない時でも別の男は居たはずだ。君の隣りに」
呉は返事をしない。
何故返事をしないのだろう。聞かれたくないことを聞かれたからか。
かっとなる。黒いものが、胸の底を蠢き、頭をもたげる。
「その男の隣りにいた間は、幸せだったのだろうな?理想と、それを追いかける生活が左右の靴のように揃っていて。過不足のない毎日だったろうな。君が尊敬してやまない男に、認められ、選ばれ、隣りに居るように命じられ」
自分の声が棘のように自分の胸を突き刺す。その痛みはどんどん強くなり、そして苛立ちはさらにつのってゆく。
何故返事をしないのだろう。何故振り返らない。
鏡の中のかたい背中をにらみつける。
こんな下種なことには答えられない、という訳か?
無理にでも返事をさせてやる。
「いつまでも続けば良かったのにな。残念だ。気の毒だよ。ずうっと、頼りになる助手のままで居られれば、君はそれでよかったんだろう?それ以外のものなど欲しくはないのだろう。それが終わるのならシズマドライブだって完成しない方が良かった筈だ」
その、事を口にした時、
ぐにゃりと。鏡の中のものが歪む。中条の姿も。
白一色の牢獄の中で、呉はつめたい唇を震わせている。
何故こんなひどいことをおっしゃるのだろう。
何故こんなひどいことを言われ続けなければならないのだろう。
何と答えればこの方は納得するのだろう。
何故わたしがそんなことを考えてあげなければならない。
当事者はわたしとあの方で、
このひとではない。
顔が歪む。心が歪んで言葉を口を割り飛び出していた。
「あなたに何がわかるんですか。あなたには関係のないことでしょう」
向こうを向いたまま呉が、吐き出すように言った声が、悪夢のように中条の耳に届いた。
「なんです?私が、そんなことはありませんって、いつもいつも言うとでも思ってるんですか?しつこく、試すようなことを。下らない、試す必要なんかありません、その通りですから」
ヘドが出る、と呟いた。
「ああ本当ですよ。私はこんなところにいたくない。いつまでもあの方のお側であの方のお役に立ちたかった。それがかなわないなら」
肩をすくめる。
「こんなところでも、どこでも、同じことなんですよ。ええ、どこだってね。私はヌケガラです。あとの人生なんか付録です。世界なぞどうなっても構わない」
「だったら」
振り返る。中条の手が伸びた。
「フォーグラー博士の後を追えばいい。それが君にもっとも」
細い首にかかる。ぐっと力がこもる。憎しみで。
「ふさわしい道だ」
後ろから締めている筈なのに。
のけぞる白い喉が見えるのは何故だろう。
まるで…
まるで、同衾した相手が官能に仰け反っている姿のようで…
中条ははっと我に返った。
自分が呉を床に押し付けて、首を締めている。呉が懸命に、その手をはがそうとしているが、もう力が入らない。
愕然とし、手を離そうとするのだが、離れない。逆に力が込められてゆく。それが正しいことなのだと、自分の中で声がするのだ、誰かの声が、耳元で、
こんな男
追われることがわかっていて媚を売りながら逃げ回っているような、男娼のような男
ころしてしまえ
中条の腹の底が焼ける。
「やめろ!」
何かに向かって怒鳴りつけ、締めようとする手を無理やり開かせ、解いた。呉の体がぐたりと床に崩れた。
まだ、その喉へ向かって伸びる手を、拳につくると、力任せにベッドを打った。と、
ベッドは巨人のハンマーで殴られたように、粉々に砕け散り、瓦礫と化し、衝撃で天井まで吹き上げられたシーツがひらひらと落ちてきた。
なんとか自分を取り戻し、中条は呉の上にかぶさって、怒鳴った。
「呉先生!しっかりしろ!」
小さく唇がうごいた。
と、激しく咳込んだ。息をしやすいように体を支えながら、背をさすり、
「大丈夫か」
だいじょうぶ、とかすれきった声が微かに聞こえた時、中条の胸に悔いと自責が嵐のように噴き上がった。
私は一体、何をしたのだ、今?
何を言い、何を思った。その挙げ句、この手で、
誰を殺そうとしたのだ?
どんどんとドアが叩かれていることに、呉が先に気付いた。
「ちょうかん…だれか…」
片手が持ち上がり、相手の胸元を掴んだ。
「でましょう…このへやは…なにか、よくない…」
「うん」
呉の体を抱えあげようとしたが、呉は自分で立つと言ってきかない。肩だけを貸して、ドアまで行き、開けた。
ドアを叩きまくっていた銀鈴の青い顔が目の前にあった。
「どうした」
「どうしたんですか」
同時に尋ね、
「今、おかしなこと…命にかかわるようなことが頻発しているんです。私も、他の皆もそれぞれ。それで心配になって来てみたら、いくらチャイムを鳴らしても出てこないので」
言いながら、呉の様子に目をやり、
「呉先生!どうなさったんです!」
中条が遮った。
「説明は後でする。皆はどこに」
「三階下の、談話室みたいなところです。ソファとテーブルと灰皿のある空間」
「わかった。済まないが銀鈴君、」
「はい。兄さ…幻夜と大作くんも呼んできます」
「頼む」
はいと答えて、二人の部屋へ向かおうとしてから、慌てて振り返って、
「エレベーターは使わないで下さい」
何故、と尋ねることは中条はしなかった。赤いカーペットの階段に向かう。
腕の中の体が、まだ少し震えているようだ。恐怖におののいているのだろうか。隣りにいて自分を支えている男に、殺されかかった記憶が、彼を震わせているのだろうか。
発作的に、中条は自分の体を自分の拳でぶち抜きたくなったが、辛うじて押し留めた。
「…済まんと、何百回言っても、足りないが」
ぽつりと中条が言った。
皆、気まずいというか、気まずいと言うにはもっと緊張感に満ちている沈黙のもと、突っ立ったり、床に体操座りをしたりしている。
ついさっきまでは、自分たちが見舞われた恐怖と不幸にまさる体験はない、と各々思っていたのだが。
目の前で、自分の組んだ手の上に、額を押し付けてじっとしている中条の全身から発せられる、威圧感のある嘆きと怒りは、ちょっと、ケタが違う。
ソファのひとつに中条は座っている。その斜め向かいのソファに、ようやく普通の姿勢で座れるようになった、という雰囲気の呉が、今顔を上げて、
「それは私の言うことです。あのようなこと、言うつもりはありませんでした。…お許しください」
「許せだって?許せというのか?」
がば、と中条が立ち上がる。皆びびって少し引いた。
「君を罵った挙句に絞殺しようとしたんだぞ。その私が何を許す権利があるというんだ」
しかし声は激昂していない。むしろ低く押しつぶされてゆくようだ。それだけに一層、この男のショックの大きさが偲ばれる。
皆が無言で動揺しまくる中、呉だけは、どうしてなのか、水のように落ち着いている。悲しそうに、微笑んで、
「あれは長官がなさったことではありません」
「私がしたことではないと…いうのは、無理がありすぎないかね、」
中条が苦笑にならない、引きつりのような笑みを瞬間見せた。
「いくらなんでも」
「いいえ。違います。そうでなければ、わたしが言ったことも『いつも言えないでいる、本心』ということになってしまいます。わたしはあれが本心ではないと知っています。故に、長官の仰ったこともなさったことも」
咳込んでから、息を整え、声に力を込める。
「わたしが申し上げたことも全て、何者かにやらされたことです」
「誰です、そいつぁ」
一番近くにいた鉄牛が尋ねる。
「呉先生が今さっき話してくれた、誰かが…誰かってほとんどBF団の奴らですけど、ここで待ち伏せしてるって、そのせいですか?そのせいでお二人が殺しあったり、俺たちが殺されかかったりしてるんですか?」
そう言ってから、微妙に首をかしげて、
「どうやって」
そう言われると、呉にも、さっきのあの恐ろしい体験が、BF団によるもの?と疑問形になる。
「うーん…幻術にかけられているとか」
「これだけキョーレツで大掛かりな幻術を使えるヤツは、俺が殺したぞ?」
戴宗の目がぎらりと白く光った。大作には、決して見せない顔だった。
「あるいは、混世魔王か。…可能か?」
楊志が呟き、一清の顔がうつむいてから、
「無論。だが、あの、我らの後ろから聞こえた声、あれが」
首をかしげ、
「第三者に植え付けられた、自らを滅ぼすための暗示の声とは、思えないのだ。もっとこう…」
「後ろから聞こえた声」
中条が呟いた。問い掛けたというよりは、自分の中で、自分の思ったことをなぞっているようだ。
そう、と一清がうなずく。
「こうはっきりとした、個人であった。…何を言っているかわかるか」
「いや、さっぱり」
鉄牛が首を振った。が、中条にはわかる気がした。
呉を殺せと、自分に命じた声には、主がいる。『殺人の暗示のための声』ではなく。
「しかし、ここまで問題が大々的になっては、くそ意地張って頑張り続けると本当に命に関わる。俺たちだけならいざ知らず、いつ大作の上にヘンな事が起こるかわからねえ。なんだか、BF団が国警の俺たちを狙ってるって単純なハナシでもない気がしてきた」
「もし、あたしらの上に起こったことがBF団の陰謀でないとしたら、幻夜のヤツに防げるとは思えないよ」
「しょうがねえですな。大作と幻夜のやつが来たら、ここを離れましょう」
「うん」
承諾し、やはり中条はがっくりと、ソファに沈む。ひどく疲れている。
すと手が伸びて、中条の組み合わされた手に触れる。
呉が、斜め向かいから手を伸ばして、触れていた。
「………」
無言で相手を見返す、見えない目に、首を振って、
「謝らないで下さい。謝ったら、あれが本心からだということに、なるでしょう」
呉はどうやら、そこのところにこだわっているようだった。
言えないでいた本心を言わされたのではない。それは違う。思ってもみないことを、無理やり言わされたのだ。…
そう、言い張っているのではない、本当にそうなのだと言いたいのだ。
相手の手を、更に上からつつんで、中条はうなずくと、
「わかった。謝るのはやめよう」
ようやく、無理にだが、ほんの少し微笑んでみせた。呉がほっとした顔で、こちらもうなずいた。
…なんだか、テレちまうな。
いつもは並んで歩くのも意識しだすと恥ずかしがるようなのに、いくときはいくんだなあ。
ちょいと、そこいらのモノサシが、特殊なのかも知れないね。
等々、目が彷徨ったり泳いでいる連中の前に、大慌てで現れたのは、同じ長い黒髪を持つ兄妹だった。
「みんな!」
「おお、来たかお前ら。よし、とにかくここを出てからだ。細かいハナシは」
「待って戴宗さん、大作くんが」
「いなくなってしまったのだ」
血を吐くような幻夜の声、それから、
沈黙。
「なに?」
戴宗はつぶやき、両眼に殺気を込めて、幻夜をにらみつけ、
「ふざけるな!」
「ふざけてなどいない!」
怒鳴り返した相手の顔が、真っ白だ。全員の胃の底が冷たくなる。
[UP:2002/6/27]
きゃ〜また終わらない〜
次で終わります。これは確か。中身もないのに長いなあ。人数が多いからかな。
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