時間にして数十分ほど前のことになるか。…
「わあ、広い部屋ですね。眺めも、すごくいいですよ」
はしゃいだ声で窓際まで行き、わあ〜と歓声を上げる。
そんな姿に、幻夜はにっこり笑って、荷物を置くと、大作のすぐ後ろに行って、
「気に入ってもらえたかな」
「もちろんですよ!とっても!」
熱のこもった返事が来て、幻夜はほっとした。この無意味にえらそうな男が、自分のしたことを誰かがどう思うだろう、などと気にするのは、まったくもって希有、というより大作のこと以外では皆無だった。
「君のいいところは、嘘をつかないところと」
「えっ?」
「喜びを素直にあらわすところだな」
大作のほっぺがほわ〜と赤くなって、テヘテヘの照れ笑いになったのを見て、幻夜は、
幸せだなあ。
生きてるって、ステキだな。
空よ海よ、ありがとう。父さんごめんなさい。
と、思った。無意識に、とうとうと流れ出す大河のような鼻血を押さえるために、片手でハンカチを取り出しながら、
「まずどうするんだ?連中と遊ぶのか」
「最初は…幻夜さんとどこか行きたいです」
赤面もじもじのまま、やや小さな声で言って、自分のTシャツの裾をいじったり伸ばしたりしている。
幻夜は鼻血のついたハンカチをほおりだして大作を抱きしめたい、と思いながら、でもどうせなら大作と二人になるのは夜の方がいいのだがなと思い、しかしせっかく大作がこう言ってくれているのにとも思い、まあ夜は夜で出たとこ勝負だと意を決し、
「わかった。じゃあ、軽くフロに行こう」
軽くフロとはどういう意味だろうと自分で思いながら、
「フロは何種類もあるから、他のは連中と行きたまえ」
「はい」
素直に答え、それから。
急に、幻夜の胸というか腹というか、そのあたりにぽふんと頭突きする。もちろん、力一杯ではない。幻夜はちょっと戸惑って、どうした…と言いかけた。
顔を上げないまま、
「有難うございますって、何回言ったか、わからないけど…ホントに、僕、」
ぐりぐりと頭を押し付けてくる。
「幻夜さんが僕のこと…いつもは国際警察機構の一員の、僕のこと、考えてくれてるんだって感じて…もう、泣くくらい嬉しくて」
声がちょっと、本当に泣きそうになっている。
「どうすれば、この気持ちが、伝わるんだろうって、一生懸命考えてるんですけど、わからなくて」
幻夜の口がちょっと開き、それから何も言わないまま閉じられ、両手が、そっと大作の肩に乗せられ、それからぎゅっと、抱きしめる。無言のまま。
大作の頭に、そっと頬擦りしてから、低い、柔らかい優しい、他では多分一生聞かない声で、
「言っただろう?君のいいところは、って。ちゃんと、伝わっている」
「でも」
「君がね。わたしがしたことを、嬉しいと言って笑ってくれるだけで…ただそれだけで、わたしは、どんな苦労だって報われる。本当なんだ」
「じゃあ僕、ずっとずっと笑顔でいます、幻夜さんのために」
誰かが。
たとえば、お互いの同僚が、この場にいたら、わーっと叫んで体中掻きむしるとか、ぺっぺっと部屋中にツバを吐き散らすとかするのだろうが、幸か不幸か誰もいないので、二人はまだ暫く、うふん。ふふふ。え?いや。うふふふ。とかやってから、
「ごほん。さて、ちょっと着替える。待っていてくれ」
幻夜は照れ隠しに咳をしそう言い残して、洗面所へ入っていった。大作はまだ赤い顔で、幸せそうにそれを見送り、さあ僕も持ってきたパタパタジャイアントロボを用意しようと荷物をほどきはじめた。
「そうだ。幻夜さん、ゴーゴー大怪球っていうのもあったんですよ!知ってます?イテーヨーカドーに売ってて」
大作が叫んだが、水音で遮られて伝わらないようだ。手でも洗っているのだろう。
あとで見せてあげよう。びっくりするぞ。他にはウラエヌスと、…ウエラヌスか?どっちだっけ?鼻のでかいはげた人に激怒されちゃうな。目の変なダルマさんと、ガイヤーと。そうそう。
「ブラックオックスも」
あったんだと独り言を言いかけた時だった。
大作くん
「はい」
思わず、素直に返事をして、声の方を見た。
誰も居ない。部屋の入り口のドアが僅かに開いている。そして…
水音がいつの間にか止んでいる。
早くきたまえ
「幻夜さん?いつの間に出たんですか?おフロに行くんですか?待って下さい、今僕も行きますから!早いですよう」
大慌てで、タオルと子供用浴衣と、パタパタジャイアントロボとゴーゴー大怪球とをひっつかんで、ばたばた走りづらいスリッパで廊下へ走り出た。
きょろきょろ見回す。と、左手の角を今曲がる、長い黒髪が見えた。
早くおいで
「待って下さいってば!もう」
一回、パタパタジャイアントロボを落とし、慌てて拾った時。
(幻夜さん、いつも僕のこと大作くんて呼ばないのに)
ふと、疑問に思った。
しかし、そこで、貴様さてはニセモノ!と叫んで飛びすさる…ことは大作はもちろんせず、待ってと叫びながら、後を追って、走って行ってしまった。
大作が追っていると思っている相手は、今もなお洗面所で水音をばっしゃばしゃ立てながら鼻歌を歌っているのだが…

(可愛いなあ。大作くん。あんなに喜んで…ふふ。ふふふ。ああ、連れてきてよかった。この分だと夜も浜辺に誘って星空の誘惑作戦も上手くいきそうだな。よっし)
鼻の下を伸ばしながらニタニタ笑い続け、洗い続ける手がふやけた頃ようやく我に返る。気がつくと随分時間が経っていた。
待たせてしまったなと思いながら慌ててきゅっと水を止めたのと同時に、ピンポンピンポンピンポン…どんどんどんどん!ピンポンピンポン!どんどんどんというやたらうるさい音が聞こえてきた。
「なんだ?」
疑問に思いながら洗面所を出、ふと部屋の中を見て大作が居ないことに気づいて、更に疑問を抱きながら、ドアのところまで行き、やたらきれいに洗った手でドアを開けた。
銀鈴の青ざめた顔があった。
「ファルメール。どうしたんだ」
「何か変な事起こってない?死にかけたり殺されそうになったり」
「…突然やって来て、殺伐とした単語を並べられても、何のことだか」
相手の表情を観察して、今のところは無事だったらしいと心から安堵して、
「お願い。細かい説明はあとにして、一度、他の皆と合流して欲しいの。大事な話があるのよ。命にかかわるの」
幻夜は、どういう態度を取るか、少しの間迷っていたが、彼女の額に流れる汗と恐慌が、『なんちゃってーびっくりした?』の類のものとは、確かに違うことを感じ、
「わかった。聞こう」
兄が思いのほか素直に同意してくれて、妹は泣き出したい程ほっとした。まずはここで説得に一苦労だろうと覚悟していたのだった。
「じゃ、いっしょに来て」
「ああ。…だが」
呟いて、一回部屋の中に戻り、見回してからまた戻って来て、
「お前がここに来るまでに、大作くんと会ったか」
「なんですって?」
尋ね返されたことで、『いいえ』と言っているのと同じだとわかった。
「大作くんがいないの?」
「ついさっきまでいたんだ。そこに、」
カバンがあいて、いくつかのものが取り出された跡がある。
「一緒にフロに行こうと言っていたんだが」
大作の分の浴衣と、スリッパが無い。…
数秒の間に、銀鈴の顔に見る見るうちに恐怖が色をぬってゆく。
「そんな…」
あえぐような呼吸をして、数度、ひく、ひくと喉を震わせ、
「どうしよう。早く見つけないと、とんでもないことになるわ」
相手の声が真実、切実な、切り裂くような響きをもっていることに、幻夜は、潮がひいてゆくような絶望と慄きを感じた。何が、どうだから、ここまでこの娘が慌てているのか、ひとつもわからないまま、多分本当にそうなのだろうと、納得した。とんでもないことになる。大作くんが。あの子が。わたしの、大事な、大事な…
「わたしの大作くんが」
思わず口走った恥ずかしい言葉に、相手は難癖をつけたり指摘して笑ったりはせず、真っ青な顔でうなずいただけだった。とても、そんなことをやっている余裕がないのだろう。
「探しに行く。どいてくれ」
「待って。一度、皆のところへ」
「お前だけ行け。わたしは一人で先に探す」
「どうせお風呂を最初に探すんでしょう?どの風呂にしたって、どうせ通り道よ。お願い、一度、皆の顔を見て話をしておいて」
なんだか。
まるで、魔よけのまじないには、それが必要であるかのように、銀鈴はそう願った。

「バカ野郎!何故ひとりにしてほっといたんだ!」
怒鳴りつけ、怒鳴りつけられ、しかし幻夜はそれに何も返さない。真っ青な顔のまま、突っ立っている。
「戴宗さん、それはやめて下さい。兄…幻夜も、まさかこんなことになっているとは知らなかったの」
「あんた」
女ふたりに止められ、ケッと顔をそむけ、
「わかってら。でもやっぱりハラが立ったから言っちまっただけだ」
それでもしつこく舌打ちをし、イライラと腕組みした指で自分の腕を叩く。
幻夜は青い顔を上げ、
「一体何が起こっているのか、何ゆえに大作くんに危険が迫っていると言い切れるのか、説明してくれ」
そう言って一同を見回し、彼らの上に垂れ込めている恐怖と疲労とダメージの影に、今気づいた。
あっと思って呉を見る。一人はずれのソファに座って、なんとか姿勢を保っているが、…
一目で「フラフラ」なのと、それから首に赤い指の跡があるのがわかった。
「呉学究」
手を上げてそれを制し、首を振った。代わりに、一清が、
「そう言われると、証拠として貴殿の前に差し出せるものは無いのだ。ただ、それぞれが各々の場所で、死にかけた。説明のつかない原因で。逆にそれで十分ではないかという気もするが」
「BF団が、多分俺たちを襲ってくるだろうってことだけどよ」
鉄牛が兄貴の真似をして腕を組み、
「そいつの幻術にかかって、俺たちが自滅しようとしたり、相手を殺そうとしたりってことはあるのか」
幻夜は眉をひそめ、
「わたし自身がその目に遭っていないので何とも言いがたいが、まがりなりにもお前たちエキスパート全員に殺人や自殺の指令を植え付けられるほどの腕、の男は」
うつむいて考え込んでから、
「今ごろはスイスにいる。…それに、たとえいたとしても、それだけの術をしかけるには、全員集合しているところで『殺し合え』『自殺しろ』と言って全員がハイと返事をし、さておもむろにという訳にはいかない。一人一人になったところで刷り込まなければならないだろう。そんな機会は、今朝港で全員で会ってから一度もない筈だ」
ふーむとうなり、
「とすると、やはり、BF団ではないのか?あの、背後で聞こえた声は…」
「今にして思うと、ちょっと、子供っぽかったような気がするんだけどね」
楊志がぼそりと呟いた。
銀鈴が声をのんでから、
「それ本当?」
三人はうむとうなずいた。
このくらいの手ってことは…と思い出して、
「五つか六つくらいの子供だった?」
「いや、そんなに小さくはないよ。大作よりは年上さ。銀鈴よりは年下か、同じくらい…かな?」
他の二人もうなずく。それなら、自分を落とそうとしていた手の主とは、ちょっと合わない。銀鈴はそう、と呟いて目を彷徨わせた。じゃあれは、戴宗さんたちの時とは、別の?…
「とにかく、何でもアリで、実体のない敵だ。そいつなら、俺たち同士をBF団だの得体の知れないバケモノにでも見せ合って、殺し合いだってさせられるだろう。どうすれば防げるのかってーのを言えないのが情けないが…」
戴宗が咳をして、
「ムヤミに、ヘンな約束をしないこと。お互いにだな、気をしっかり持つこと。…ああ、本当に情けないがこのくらいしかねえや。大作を探そう。数人で組むぞ。単独にはなるな」
互いに頷きあう。
「最後にどこへ行くとか、言ってたのか?」
「風呂、と言っていた。どこの、とは言っていない」
「OK。見つかっても見つからなくても、一度集合しよう。30分後に正面玄関でだ。いいな」
合意の声とともに、散ってゆく。真っ先に走ってゆこうとした背に、
「ちょっと待ってくれ」
声をかけられ、促されて、幻夜は呉の向かいのソファに座った。
「何だ?」
「少し気になったのだ。君がここを、大作くんのために選んだのは何故だ?いくらでもある、この手のレジャーセンターの中から、ここの」
強調して、
「施設を選び出したのは、何故だ」
「大量に、招待券が送られてきたのだ。BF団に。皆は失笑していたがな。一体BF団を何の団体と間違えたのかと」
「それを大作くんに送ったのか」
「そうだ。二枚失敬して片方を送った。どうせ誰も使わないのだろうし」
BF団に、大量の招待券…と呟く。
「送り主は誰だ」
「いや…そういえば、書いてなかったな」
「何だろう。なんだか、聞いたような気がするのだが…かつて、BF団に」
呟き続ける呉の喉を見つめて、
「あなたは、どんな目に遭ったのだ?」
えっと言ってから、反射的に手を喉にやり、いや、と強く、
「別に大したことは」
「私が彼の首をしめて殺そうとしたのだ」
呉がうろたえて中条を見た。幻夜がゆっくりと顔を、隣りに座っている男へ向ける。
まるで、呉の首を締めたのが幻夜であるように、中条は幻夜を見つめ…いやにらみつけている。そのことに怯む様子も見せず、
「ほお。貴方ともあろう男が、何者かに踊らされて、自分を慕ってくれている部下を殺そうとしたのですか」
かすかにせせら笑って、
「わたしならそんなことは死んでもしない。大作くんの首に手をかけるくらいなら、喜んで自分の首を締める。いや自分の首を切り落とすだろう」
「やめろ。君にそんな決意表明を聞かせてもらう必要はない」
言い放った呉を見返して、
「わざわざ、人を呼び止めたのはあなたの方だろう。用が済んだのならわたしはもう行く」
立ち上がった長い髪が広がって翻り、遠ざかって行った。
呉はちらと中条を見、視線を落とし、それからえいと目を上げて、
「わたしたちも大作くんを探しに行きましょう」
「うん」
返事がなかったらどうしようと思ったのだが、中条はすぐに答えて、立てるかと聞いてきた。
「もう平気です」
そう言ってから、もうヘイキですなんて、ちょっと子供っぽい言い方だと自分で思う。大事ありませんとか、支障ありませんとか言うのが普通だ。…無意識に、エマニエルにとっての大作を、なぞって演じてみせたのだろうか。ロールプレイか?
いやだなと思う。下品だ。
「どこの風呂から探しましょう」
「幻夜は一番近い世界の風呂から探すだろうから、下の大浴場へ行ってみよう」
「はい」
勢い込んで返事をしたので咳が出た。慌ててこらえる。
その姿に、気づかないフリをしてやりながら、
………
幻夜はいい。自分の愛した対象の、一から十までが自分を向いていると思えるから。
あの少年のどこを探しても、深々と根を張って決して抜けない巨木だの、その深く暗いうろの中でひそかにしかし確かに息づいている想いなどというものは存在しないだろう。
尋ねれば答える、何でも。微笑んで、うなずいて、懸命に。その笑顔が自分に向けられていると思う時、これ以上を望むなと自分の中でつぶやく声がする。無理に引き据えて釘で打ちつけて、わざわざ、君の中にあるものはこれで全部か、もう隠しているものはないのかなどと…
バカな事をしたくなる自分を戒める声がする。
そんなことをしたところで、決して、彼の中身全てが曝されることはない、どんなに頑張っても私の手は届かないところで、
その想いは咲いている。
もしも。私の手が届いて、それをひきむしり、これが君の、と白日のもとに差し出したら。
彼はもう二度と、還ってこない。これだけは確かだ。
『あれは本心ではない』という彼の言葉を、嬉しいと思い、そうだなと言い返しながら、
私という人間の一番深いところで、嘘だ、とつぶやいている声がある。
こういう私を幻夜は愚かだというだろう。『あなたは本当には彼のことを愛していないのだ』くらい得々として言うだろう。
幻夜が大作君に『君を愛している』と言っている時、私は任務の話をする。人が死ぬ話をする。シズマドライブの話をする。時々イヤミを言いながら、所詮外郭のところをうろうろして終わる。
彼を失いたくないからだ。
…私は馬鹿で無力なのだろう。一撃で地球を半分に出来る拳など、何の意味もない。そのくらい承知している。

「幻夜さん、待って下さいってば」
ひーひー言いながら大作は走り続ける。階段を下り、また下りる。
ヘンだな。
ふと思った。確か、
大浴場は2階、露天風呂と《世界のフロ》は4階だ。プールは屋上。
そう言ってたのに。ずいぶん下った気がする。
間違えて覚えてたのかなあ。
首をかしげながら、少し先の角や階段をひょいひょいと先に曲がってゆく長い黒髪を追って、大作はどんどん下りて行った。いつしか、どこからか、ヴーンという機械の音がしている。
階段を下りきって、確かこっちへ行ったはず、という方を見る。真っ直ぐな、真っ赤なカーペットの廊下の突き当たりに、大きな扉があった。上には看板がかけられているが、字がかすれていてほとんど読めない。
「おとこ、って書いてあるんだよね?幻夜さんこっちに行ったもんな。…」
振り返ると、廊下の向こう側の突き当たりも、同じような扉がある。
「あっちが女風呂だな。でも普通、赤と青ののれんとか、かけておくけどなあ。間違ったらすごく恥ずかしいぞ」
そういう目に遭っている自分を想像して、赤くなりながら、こちらだろうという方へ歩み寄ってがらがらと引き戸を開けた。
がらーんとしている脱衣所は、妙に薄暗い。カゴの入った棚が、数え切れないほどあるし、考えてみると男風呂と女風呂の入り口がこんなに離れているということは…
「ものすごくオフロが大きいんだな。うわーい。楽しそうだなあ」
わくわくしながら一番近くのカゴへ服を脱いで入れ、さて、とあちこち見渡すが、幻夜の姿は見えない。
「もう先に入っちゃったのかなあ。せっかちだな幻夜さん」
タオルと、パタパタジャイアントロボと、ゴーゴー大怪球を持って、浴場の扉を開けた。
もあぁ〜と湯気が充満している。一瞬何も見えなくなった。
「うわっ」
けほけほ言いながら中に入る。タイルの感触が足の裏に妙に冷たく感じられ、ひやりとする。
向こうの壁が見えないほど大きい。湯気のせいで感覚がおかしいのだろうが。しかし、岩を模したと思われる湯船の中にも、設備の整った洗い場にも、誰もいない。こんなに広いのに貸切だ。
「幻夜さぁん」
声がわーんと反響する。返事がない。
「幻夜さんったら。どこに隠れてるんですかぁ。もう、ふざけないでくださいよう」
よぉう。よぉう。やはり返事はない。
「ちぇっ。絶対どこかに隠れてて、僕が近づくと『わっ』とかやるんだ。全くもう」
幻夜さんて子供なんだから。と言いながら、体を洗うことにした。お湯はふんだんに出るし、こんなに湯気がもうもうなのに、何故だか妙にうすら寒い。
ざばーとお湯をかぶり、シャンプーをとって泡立て、ごしごし洗い始めた。
と。
かこん。誰かが、隣りに座椅子を置いた音がした。
シャンプーで目が見えないまま、顔をそっちへ向けて、尋ねた。
「幻夜さん?」
くすくすという笑い声。しかし、幻夜のものではない。もっと年下だ。
「え、違ったの?ごめんなさい」
恥ずかしくて慌てて謝った。ざーと音がする。お湯を出したのだろう。しかし、
ゲンヤって
隣りの声がそう呟いたので、答えようとした時、隣りから流れてきたお湯が、大作の足にかかった。
冷たい。水だ。
びくっとする。まだ、ざーざー出ている音がしている。ざばー、となにかにかけた音すらする。そして、大量に流れてくる、冷たい水。
…この水をかぶってるんだろうか。
冷水をかぶって体を鍛える人はいるけど…
「幻夜さんって僕の、連れだよ」
なんだかおかしいと思いながらとりあえず質問に答えようとしたが、途中からこの年恰好の少年にそぐわない表現になった。家族ではないし、親戚でもない。ボーイスカウトの先輩でもなければ、近所の兄ちゃんでもない。
まあ、敵ではあるのだろうが、そんなことを言うつもりは大作にはないし、風呂場で説明するのには使わない続柄だし。
本人がいたら、『いやだな。寂しいな草間大作。決まっているじゃないか。だろう』とか言いそうだけど。
くすりと笑った時。
ゲンヤは、ここにはいない
「え?」
もう二度と会えないだろうよ
思わず、シャンプーだらけの顔をこすって、目を開け、隣りを見る。が、同時にシャンプーが目に入って激痛が走り、うわと言いながらお湯をかぶろうと、手で探るが、桶も蛇口も手に触れない。
「ちょ、ちょっと、待って。待て!」
怒鳴ったが、もう返事はない。
シャンプーが目に入る一瞬、大作は隣りを見た。…でも、誰もいなかった。それどころか、座椅子も、桶も置いていなかったし、シャワーヘッドはちゃんと上にかかっていた。
どうして?さっき確かにイスを置いた音がしたし、水音がして、冷たい水が流れてきた。それに。
声がしたじゃないか!
全身をぞっとするものが這い登った。ヘンなことを言った誰かが隣りにいたんだ!だから僕は…
いざって、桶や蛇口を探して這い回ったが、何もない。どうして。ついさっきまですぐそこで、お湯を出して使っていたのに。
混乱が、あと一歩で恐怖の方へなだれるという瀬戸際のところで、
「わあっ」
大作の手が手ごたえを失い、頭から湯の中に転がり落ちた。
一瞬上下がわからなくなり、手で鼻をつまみ、もう片手でむちゃくちゃに湯を掻いた。足をばたばたさせる。
ひょっとして底なしなのか、と思った時、もちろんそんなことはなく、足は底につき、思い切り蹴った。
「ぷはぁ!げほげほげほ、はぁはぁはぁはぁ、げほげほ」
湯をふりまき、必死で顔を拭い、立って辺りを見回した。
どこをどう這ったのだか、岩風呂風の湯船に落ちたらしい。さっきまで体を洗っていた場所で、イスと桶がひっくり返っているのが見える。さっきの混乱を物語っているようだ。
もちろん、隣りは整然としていて、誰かが居た名残など、何も残っていない。
肩を上下させて、ふと見ると、湯船に落ちた時に切ったのだろう、腕をすりむいていて、血が流れている。
「いてて…」
そっと触ってみながら、今のはなんだったんだろうと、震えてくる唇をあわてて噛んだ。と、
後ろから何かがさわってきて、悲鳴を上げて振り返った。
パタパタジャイアントロボと、ゴーゴー大怪球が、ぷかぷか浮いている。
「これ…体洗う時に、側に置いておいたんだけど…今持ってきたのかな、僕が」
それともふっとばしちゃったのが、偶然湯船に入ったのか。
拾い上げようとした時。
そのおもちゃ、どうやって遊ぶの?
大作が目を見開いた。

[UP:2002/7/4]


次で終わるって言ったのはこの口か。いや、終わったんだけど、すっごい大きくなったから、二つにしただけです。ハイ


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