ものを言わなくなった呉を不思議そうに眺めていたネイも、やがてどこかへ行ってしまった。そのことにすら気づかず、立ちすくんでいる。
こわい。
おそろしい。
どうしたらいいのかわからない。
いや、しなければならないことはわかっている。この村を救うのだ。
どうやら、そのために呼ばれたらしいし。
そこでまた、呉の体が震える。
そのために呼ばれた。村を救うために呼ばれた。そして目下そのために努力している。
その私たちを村の皆は『ああよかった、呼んだ甲斐があった、ああしてもらうために呼んだのだし』と思って見ている。畏れるような、ご機嫌を伺うような顔には、そのフキダシがくっついていたのだ。
そして無事、ずっと村を覆っていた暗雲を取り払えたら…
『もう、帰還は叶わない』
何故だ。
…ひょっとしてその後殺すつもりででもいるのか。このために呼んだ我々の命を何かに捧げてようやくそれで全部丸く収まるとでも思っているのか。
『ニエを呼ぶ力』
古来、神のような存在に生贄を捧げて無事や豊作を祈った民族は多い。今もその風習が残っているとでも?
『レイは最後までいやがってた』
だから、あんな顔をして、我々を見るのか?やめましょうと言ったのに。そんな野蛮なことは。そんな酷いことは。そう訴えたけれども、通らなかったから…
しかし、単純に、「コトが済んだ後貴様らを殺すという方向で、村としてはゴーサインが出てしまった」ということを、レイが遠まわしに言って、悪いなあと思っている、というのとは…
違うと思う。何か違う。
あの女の絶望の深さは、そんな単純なものではない。
我々が多分、この村の連中全員が束になってかかってきてもかなわないくらいに強いことは、もう充分に理解しているだろう。からくり人形全てを壊してほっと一息ついているところに、アミでも投げて拘束するつもりででもいるのか。それとも知らないでいるうちにここの連中の願い通りに動くような、クスリでも盛られて…
ネイの怪我に、なにやら練って差し出された薬を思い出す。
毎日の食事にでも入っていて。知らないうちに口に入れていて
途端に、未だにどこか馴染めないでいる粉っぽいパンのようなものと、得体の知れない果実と、泥くさい水の臭気が喉もとに突き上げてきた。
「げぶ」
手で口を押さえた。抑え切れず戻したが、何も出てこなかった。
苦い胃液の味に涙が出てくる。
バカか。勝手に想像してえずいてどうするのだ。しっかりしろ。
いくら自分を叱咤しても、前向きに気持ちを立て直そうとしても、怖気てゆく心はどんどん胸の奥にしぼんでいく。縮み上がっていく。空気のもれた肺のようだ。
怖い。
一体どうなってしまうのだ。どうなってしまうのだろう
この先。
「呉先生」
後ろから声をかけられビクリと肩が上がる。いけない。長官に、こんな姿は見せられ…
だが、再び胃液がこみあげてきた。そばにあった木に縋って、苦痛とわずかなきいろい液体を吐き出した。
情けなくて涙が出てくる、という言い回しそのままだ。いや、涙も出ないだったか。後ろでどう思いながら私の背を見ておられるだろう。同じ苛酷な状況に叩き込まれたもう一人の人間がこれでは、頼りにならないどころか…
大きな手が呉の背中をぽん、ぽんと叩いた。リズミカルで平板で、機械的なほどに一定の叩き方だ。どかどかどかどかと鳴っていた、呉の速い心臓が、そのリズムを追いかけて、次第にゆっくりになってゆく。
「深呼吸したまえ」
無表情な淡々とした声に、胸で、
はい長官。
即座に返答し、ひゅ、ううう、と息を吸い込む。
「慌てずに」
はい長官。
はぁぁぁぁ、と息を吐き出す。
「もう一度」
はい長官。
ぽんぽんぽんぽん。ぽんぽんぽんぽん。
再び息を吸い込んだら、ぴーぴゅるー、というような音がした。慌ててつい咳き込んだが、
「落ち着いて」
そう。落ち着いて。落ち着いて息を吐け。さあ。『ふうううふっふふふううううう』
ぽんぽん。とくとく。ぽんぽん。とくとく。
うっすらと滲んだ額の汗を手で拭った。手はひどく冷たくなっていて、手自体がいやに汗ばんでいたので、胸で手をなすって、もう一度額を拭う。
「大丈夫かな」
最初に呉先生と声をかけた時から、全く変わらない声音で、そう尋ねる。
はい、と注意深く声を出してみる。震えていない。かすれていない。普通の声に聞こえる。オーケーだ。
「はい」
もう一度力をこめて返事をする。呉の気持ちを読んだかのように、うん、と返事があってから、
「今後のことで、相談がある。これからいいかね」
何も、見なかったようにそう続ける。
これはなんだろう。
呉はなんだか、へっ、という感じで笑ってしまった。いつもの自分がする笑い方ではない。
しかし、そう笑うしかない気分だ。
勿論、殊更大騒ぎして、大丈夫かね呉先生具合が悪いのかねキモチ悪いのかねゲーッてやりたまえ背中をさすってあげるから、と言う人ではない。
この方にそうされたくない、という気持ちでは、自分は誰にも負けない程だから、無論それでいいのだが。
こんな得体の知れない状況に、更に拍車をかけるようなことを聞かされ、恐怖と焦燥で嘔吐している男の背を叩いてやってから。
…まるで、何もなかったかのように言うのだ。
目下の状況を整理してみよう。
これからのことを相談しよう。
今ここですべきことを確認しよう。
…たとえ突然、月面に飛ばされても、「まずは酸素を確保してから、今後のことを相談しよう」と身振り手振りで言うのだろうと思う。
本当に、私と長官は、同じところからやってきて、同じ危機に面しているのだろうか。馬鹿馬鹿しいが、ふと疑問になる。さっきも、ふと、レイと長官が同じ浮島にいるのを、私一人が別の飛び石の上に片足で立って眺めている気分だったけれども。
さっきまでは、そのことが怯えと孤独であったが、今は、なんだか呆れ半分にぽんと投げ出す、くらいの気分ではある。
決して、前向きで建設的な、よし、行こう!という笑顔ではないが(そんな顔が出来るようになるとは、とてもとても思えないし)胃は空だけれども吐いてみてちょっと落ち着いた、くらいの顔つきになって、中条を振り仰ぎ、
「わかりました。すぐうかがいます。…取り乱しまして大変失礼いたしました」
相変わらず紙みたいな顔色で、こめかみの辺りに乱れた髪をほつれさせながら、なんとかそう言いきった相手に、中条は緩く首を振って、いや、と呟いてからその顔を暫し眺め、
「思っていたよりも、」
「はい?」
首をかしげて尋ねる。中条は僅か、ほんの僅かな笑みを口の端に見せ、
「君が強いので助かる」
そう言うと、背を向け、先に小屋に戻って行った。
…つよい?
どこが、と四方八方からつっこまれそうだ。いや誰よりも先に、自分自身がそう言い返す。
イヤミだろうか?
やれやれキミは強いねえ。キミさえいれば百人力だ。心強い限りだよ(やれやれ)という類の?
それとも単に戦闘能力のことを指して言っているのだろうか?
すぐにからくり人形の下敷きになってタスケテと悲鳴を上げるのかと思っていたら。なかなか戦えるタイプだったのだな。いつもの、白衣を着た様子からは想像がつかなかったよ。
どちらかといったら、こっちだろう、でなければ、嘘でもそう言えば「そうか?」とこっちが気を良くしてやる気を出すだろうという事か、等々思いながら、しかし。
その辺りなのだろうと片づけてしまえない気持ちが、胸のところで脈打っている。せっかくおさまった心臓の鼓動がまた少し速くなっているのは、そのせいだ。
君が強いので助かる、と言うその前に見せた微笑は、今まで見たことのない種類のものだった。
「もう限界」な部下のやる気をなんとか鼓舞するためでなく、言い訳や嘘が見え見えの口上を冷笑する故でなく、会話が円滑に進むために入れるうなずきと同じような記号でなく、
まるで、
自分の想定外のことが起こったことを、意外に思い…面白がっているような、
思わず、こぼれ出たような、
「…本心からの笑いだとでも言い出すつもりか。やめろ」
声に出して自分を戒める。なんだそれは。長官が本気で自分に感心しているのだと思いたいのか。
オエーとかやっておいて、恥ずかしいことを言うものだ。全く。顔を赤らめて、足早に自分も小屋を目指して歩を進める。
長官がそんなものを、ほいほいと見せる筈がないではないか。…見たいと、いくら願っても。
そんなことを夢想するヒマがあったら、何かショックなことがあるたびに背中を叩いてもらったりしなくていいように、まずは自分を、それこそもっと強くしなければ。
しつこく、やや大袈裟に、自分自身に対しゲキをとばしながら、それでもやはり赤らんだ頬をしている。嘔吐感は治まっていた。
「カラクリ人形が最終的に爆破されてしまうので、なんとか改造してこちらの味方に作り変える、という方法は採れない。加えてこちら側で、あれに対抗できるようなカラクリ人形を作れない以上、製造元を叩くしかない」
「はい」
小屋の中で正座して、中条の話を聞いている。
「しかし、私と君の二人で向こう側の製造工場に辿り着き、破壊しようとしている間に、この村が襲われたら、我々にはそれを防ぐ手立てがない」
「そうですね」
「カラクリ人形が襲ってくるのは定間隔ではないが、どんなに短くとも、五日は間があくらしい。故に襲撃のあったその日に、私と君とはここを出て、島の反対側へ向かう。その前に」
「きちんと役目を果たすバリケードをつくるのですね。石垣のような」
「そうだ」
相手がうなずいたのを見てほっとする。良かった。合っている。
「からくり人形は馬鹿力だが、木製だ。きっちりと構造を考慮して構築すれば、石の塀をそうそう壊せるものではない」
中条はここでちょっと思案してから、
「呉先生、こっちで行っている建築物製作の様子など、カラクリから相手側に伝わっているということはないだろうか?」
「カメラや集音機のたぐいが搭載されている可能性があるかという意味ですか?」
うなずく。
注意深く考えてから、顔をあげ、
「破壊・解体したものは全て調べましたが、そういった機能は付いていない、と思っていいでしょう」
「じゃあ、大丈夫だな。回り込んで入って来ないように、完全に村を囲ってしまう。破壊できなくとも、放っておけばいずれは数を頼んで乗り越えてしまうだろうが、その前に大元を叩くという訳だ。良いだろうか」
「了解しました」
うなずいた相手に、
「明日からは土木工事だ。構造計算をして設計図を引いてくれるか。私は使えそうな石の層を探しにいく」
そう言ってから、石か、と呟いた。
「なんですか?」
尋ねた呉に、首を振ってから、
「我々が遺跡の発掘現場から、突然ここに移動してきた時のことだが」
「あ…はい」
思わず虚を突かれたような声を出してしまう。これだけ「戻れないってどういうことだ」「いや大丈夫必ず戻れる」とやっているのに、ここに来てしまった前の事は、何故だかあまり思い返していなかった。もうずっと昔のことのように感じられる。いや、昔だとか最近だとかいった、時間的に順番に並んだ出来事として受け入れることが出来ない。
いわば、別の世界の自分が体験していたことのようだ。
…なにを、ファンタジックな言い方をしているのだろうとふと夢から醒めたような気分で、
「はい。地震があって、正体不明の光が足元から噴出した時のことですね」
声に力をこめて返事をした。
「あの時、足の下に黒曜石のような感じの石盤があったな。丸い穴が等間隔に穿ってあって、そこから光が射したように見えた」
「はい」
「そして、ここに現れた時、やはり足の下には同じような石盤があった。丸い穴が、等間隔に穿ってあったな。時計のように。
石、と聞くとあの時の事を、思い出すのだ。私は」
そうだ。
今にして思えば。
もし本当に、レイが我々を遺跡の発掘現場から遠く隔たったこの島に呼び出したのだと信じるなら、あの黒い石はテレポートの台座だったのだろう、ということになる。
まだとても実用化はしていないし、理論的にもまだまだミライのキカイだが、瞬間移動の装置をつくるとしたら、このような形態になるのではなかろうかと思われる。
「それにしても、どういう理論に支えられた技術なのでしょうね」
「未知の、科学の力だな」
そう言った中条は苦笑していた。それからふと、
「呉先生」
「なんでしょう」
応える男のこめかみに、まだ髪が乱れているのを、ちょっと注視してから、
「と、いう訳だから、壁が出来次第、及び第何次かの敵の襲撃を退けた直後、我々は出発することになる。最初にここに来たあの石の台座が、この周辺では一番高い位置にあるようだから」
「はい。出来る限り、目的地方面への調査を行っておきます」
気負った声が返ってくる。
うん、とうなずき、
「それから」
「水と食料と簡易な医療道具を揃えておきます」
更に気負った返事がくる。中条はやはり、うんとうなずいてから、
「それから。
移動は強行軍になる。出来る限り、体調を整えておいてくれ」
今度は、相手の言葉の先回りが出来なかった呉は、きまり悪いような妙に悔しいような表情を隠して、はいと言った。
体調か。体調はよいとは言えない。…すこぶる良くないが、そんなことを口にしても…
ふと、気がついた。
ほとんど乱調気味の毎日を送っているが、そう言えば、あの夢をみなくなった。
誰かが、絶望を垂れ流すような泣き声で泣いているのを、必死で慰めようとしているあの夢だ。
口の回らない自分は、無力感に圧し拉がれそうになりながら、
諦めたら終わりだと思っている。
…やはり、あれは、レイだったのかも知れないと思う。ああやって、遠い地点から、私に向かって信号を送っていたのかも知れない。私の知らないテレポート技術の、前準備というやつだ。私は知らず知らずのうちにそれを受け取って、受け入れていったのかも知れない。
わかったと。なんとかしようと。決して諦めないからと。
で、リンクして、呼ばれて、ここに来た。
呼ぶという目的は果たしたので、もう夢には出なくなったというわけだ。…
理屈としては合っているのかも知れないが、果たして本当かどうかはわからない。
レイの顔を見た時、このひとだと思いながら、どこか違う気もしたし…
そうだ。それに、
「長官」
「何かな」
「つかぬことを御伺いしますが」
「うん?」
誰かが泣いている夢を、最近続けざまに見ませんでしたか?その女はレイに似ている、とお思いになりませんでしたか?
…なんだかえらいことを尋ねようとしている気がして、口をつぐんだ。
何かねそれは。はあ、私がそういう夢を見ておりまして。
ひょっとして長官も呼ばれていて、それで私と貴方の二人で瞬間移動したのかと。
私と貴方が。
うわっ、と思う。片手で顔を撫で回す。
「呉先生」
「いえ、なんでもありません。申し訳ありません。ちょっと勘違いしました」
「勘違い?」
と、しか言えない。夢で選ばれた宿命の二人なんて。ティーンズ小説じゃあるまいし。
ええ、はい、えへへへとおかしな笑い声を上げる。なんだか場違いに浮かれた気分の後ろから、
―――ならば、陽は?
もうずっと姿を見ていない。一緒に飛ばされた筈なのに、一緒に呼ばれたのならもう会っている筈なのに。なにか過ちでもあったのか。
あんな重苦しい、のしかかってくる夢を毎晩みているようには、見えなかったが。明るくて元気で、日に焼けた顔でいつもにこにこ笑っていた。
レイに聞いてみなければならない。そろそろ、言葉も通じるだろう。もう一人呼んだのか。なら何故ここには二人しかいないのか。
一人だけ、遠く離れた場所に行ってしまったということはないのか。もし、呼びそこなって、あの場に残ったのであれば、それに越したことはないが。
…帰還は出来ないという言葉の意味は教えてくれなくても、そのことは答えてもらわなければならない…
再び、胃液の味が喉もとに甦ってくる。
しかし、今は、
ぎゅっと顔をしかめる。
問題がどれほど山積していても、とにかく、できることをしなければならない。石の壁を築きここを出て相手の兵器工場を叩く。今はそれが私の任務だ。私は国際警察機構の一員だ。
私は中条長官の部下だ。
顔をしかめていたのはほんの数秒足らずだ。だから、どこかぶつけて痛かったのかと、思ってくれただろう、と呉は思い、中条の顔を見ずに、
「紙はないので、砂の上に書くしかないでしょうか」
「そうだな」
中条には、壁の石の組み方の事を言っているのだと、通じているようだった。
「あの者たちは、カラクリをなんとか出来るのか」
「でなければ、呼んだ甲斐がない。今のところ悉く撃退はしているようだが」
「それだけでは解決にはならない。もう二度と来ないようにさせなければならない」
壮年、というよりは老年の男たちが、顔を見合ってから、いっせいに、入り口にいるレイを見る。
「どうなのだ。『呼ぶ者』よ」
いっせいに聞かれる。
目を上げる。しかし、目に光も力もない。ゆっくりと、口を開く。
「カラクリの足止めをしておけるモノを、つくってから、『向こう』に行って、カラクリを生むものを、無くす、と言っていた」
おおとどよめきが上がる。
「そうか」
「やっと」
「よかった。ようやく」
頷きあう男たちから、再び視線を外す。床に落ちる。
中心の、一段高い位置にいる、ひときわ年老いた男が、
「やっと役目を果たすというわけだな。『呼ぶ者』よ」
今度は目を上げないレイに、
「お前から見て、あの二人のどちらが、より力があるか」
随分間を置いてから、
「…それぞれ、別の力に長けているので、その問いは無意味だ」
「ならば、お前の尺度で、より力のある者を選んでおけ」
男はうなずいた。
「お前はその男の子を産むのだから」
レイの顔が鋭く歪んだ。何も言い返さず、もう視線を上げなかった。
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